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絶滅した武士

『武士は食わねど高楊枝』という言葉がある。
意味は何も腹に入れてなくても、さも腹一杯食べたかのような振る舞いをすること、らしい。
単に強がりなだけだと思う。
しかしこの言葉が造られた古来、武士とは永劫に位の高いものだった。
その武士を持って強がりと称している。
何か不思議です。その意味をこの間ある映画を見て考えました。
映画のタイトルは『用心棒』黒澤明監督の白黒映画です。
粗筋は、諍いを持った二つのやくざ団体の棲む町に一人の用心棒が流れ着き、その争いを根底から無くすという話。単純に多勢に無勢の話に見えるが、そこは一つ筋が通っており、あくまで用心棒は全員を退治するのではなく、諍い合っている双方を口車に乗せ、互いに討ちあわせ、両成敗を狙うという寸法だ。
よほど頭が切れていないとできない。
ここでの用心棒。常に強がりの姿勢を見せる。確かに腕はあるが。
いざとなれば多勢を相手にはせずに、宿屋へひっ込んだり。機を窺い知る最中は、酒ばかりを呑み、臨戦にもほど遠い。しかし口だけはやたら立つ。
つまり、人前には大きな態度で示しているということだろう。
決して焦らず、自分の思うがままに行動する。
それはよほど自分の理念に自信がないとできないことだ。ただ、裏を返せば、わがままなだけの倣慢男にもなる。
この合間が難しい。他人に悟られず、我が身の真髄を発揮するタイミングを見定めるは並大抵に難しい。
でもこの用心棒はやってのける。
やくざにリンチに遭い独房に閉じ込められようと、土の上をのたまおうと、
只、自分の吐いて捨てた台詞に命を懸け、強がりを酒代にして迷惑をかけた宿屋の主人の命を死に物狂いで守り、用心棒は最後成し遂げる。
要は格好悪くても、最後まで武士であれ!という事なのか。握り飯一つ無くても、
刀が脇にある以上は人前で泣き言は言うまいと。
それが日本古来の武士道なのかと。
さらすのは醜態ではなく、自分の生首なんだということなのか。
趣は分かるが決して真似できない。あの頃の武士ほどの強がりや高飛車な態度は今の我々にはできない。
何故なら何をするにも命を張る必要がなっくなったからだろう。
2006/10/21| kawauchi |
祖母への感謝

この間、母方の祖母のお墓参りに行きました。本当に久しぶりで、祖父や祖母の眠る墓の場所などすっかり忘れていました。祖母が死んで数年、まったく無縁だったお墓参りに行く切っ掛けは母の言葉でした。
「先祖を大切にしないと病に羅る」
こんな感じの内容でしたが、やたらと気に掛かりました。
持論で亡くなった人との縁は魂の抜ける四十九日で切れると思っていました。
「先祖を大切に!」とはテレビによく出る細木何某さんが言われている常套句ですが、そんなことは全く眼中になく今まで過ごしてきました。
しかし、日頃は、全く迷信にかかわりのない母が言った言葉は神懸かったように聞こえました。
その時分心当たりがあるからでしょう。
ともかく、お墓参りに意味を見出し、赴いた先では果たして素晴らしい開放感が待っていました。した事といえば大したことはなく、ただお墓を掃除して線香を焚いて、幾度か手を合わせただけ。
しかしよかった。その時ばかりは今やすっかり老けた叔父の言葉も神妙に聞こえたもんです。
大切に愛でてもらった祖母の霊が、こうして自分の魂と同化したようでとても心地よかった。
亡くなったときは柄にもなく大泣きしました。失って初めて分かる大切さを祖母から教えてもらいました。
今は余り感情的に泣いたりはしませんが、辛く悲しいときがったときには、やはり亡くなった時の痩せた祖母の顔を思い出します。精一杯に生きた女性への餞は孫の涙で充分なんでしょうか・・・
あの日、お墓の前で掌を合わせたときの心の台詞とやらはこんなでした。
「ありがとう、ばあちゃん。元気でやってるわ。」
2006/10/05| kawauchi |
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